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Interview

阿見という町に生きたこと、四半世紀という歴史を経て次世代へと継がれゆく製造業

メカトロ機器、電子機器、FPC機器の3事業体を中心に、阿見町近辺の製造業にとってなくてはならない存在である日本サポートシステム株式会社。時代に合わせて多様化していくニーズに応え続け、「お客様本位のもの作り」にこだわった四半世紀が過ぎようとしている。阿見という町が生んだ、もの作りにおける回顧録を聞く。

――今年で25年を迎えるにあたり、創業から今を振り返ってみたご感想は?

井田

当社は1990年の8月に創業しまして、本当にいろいろな経験を経て今に至っている。密度の濃い四半世紀だったと感慨深いですね。

実は最初、この阿見とは縁もゆかりもなかったのです。独立前に私がいた企業も同業を営んでおり、当時担当をしていたお客さま方がこの一帯の皆様だったのです。

阿見付近に競合他社がいなかったので、商圏としても、また今までのご縁を大事にする意味合いでも、この地を選んだのです。

――当初から精密測定器製造事業だったのでしょうか?

井田

現在は精密測定器製造を柱にしておりますが、創業当時は基板や検査事業を最初に初めましてね。そこから工場の生産過程におけるさまざまなサポート事業へと広がっていきました。

当然会社の規模も年々拡大しましたね。最初は5名の仲間で始めたものが、リーマンショック前のピーク時には110名を超える人数になっていましたから。ただ、会社の規模が大きくなると、やはり問題も起きてきます。そんな問題を経て、人として鍛えられてきた部分はとても大きいですね。

――どのようなご苦労がおありだったのですか?

井田

いろいろとありましたね。社員が不正を働いてしまったこと、税務査察が入ってしまったこと、共同経営をしていた仲間の独立問題……本当に思い返せばいろいろなことがありました。でも、そうした出来事のひとつひとつが、自分に大事なことを気づかせてくれました。

とにかく会社をつぶさないようにひた走る中で、考え続けたのです。「社員は今何を求めているのか?」「会社が果たさなければならないことは何か?」「当社に関わる人たちが生きること、幸せになることはどういうことか?」。

それが長い年月を経て、ようやく見えてきたのです。

井田

私はライフワークとして倫理を学び続けていますが、倫理がわかっていると行動に迷いがありません。迷いがなければ、心に波風が立たず安定する。すると自然に結果につながっていきます。問題やトラブルは、一見すると自分にとって苦難のように見えますが、それは今の自分にとって必要なものだからこそ目の前に現れている。この世に無駄なことはなく、万象に意味があるのだと考えられるようになってからは、経営者として一段上のステージに上がることができたのではないかと考えています。

――その結晶が、経営理念や行動指針につながっているのですね。

井田

当社の経営理念は「お客様、協力会社、社員の満足を追求する」「和を大切に、感謝と笑顔で対応し、人を育てる」「仕事を通して幸福感を味わい、生きる意味を自覚する」というものです。この理想を実現するため、社員には4つの行動方針を打ち出しました。

「すべてのお客様、社員の輪を大切に、挨拶を徹底しよう」「整理整頓された美しい環境から良いアイデア良い製品は生まれる」「全てに対するスピードアップが売上と利益を増大する」「個々の目標に向けたやる気が不可能と思われる壁をぶち破る」。これらは会社が経験してきた艱難辛苦から生まれた財産の言葉であり、キーワードだと思っています。

私は間もなく次の世代にバトンタッチしますが、後進の皆には継いでいってほしい、ひとつの「魂」ですね。

――バトンタッチというと、経営が新体制になるのでしょうか?

井田

そうです。ビジネスサイクルは25年でワンサイクル、つまり今期でひとつの区切りを迎えるべきだと私は考えています。来期となる26期からは、後継者にバトンタッチします。時流に即した、新たな経営を取り入れて、ますます当社での仕事が社員の皆の喜びに繋がってほしいと思います。

そして25年の長きにわたり、見守って下さった阿見の皆様に、ますます貢献できる企業になっていくよう願ってやみません。

阿見で25年間の歳月を過ごし、その間に多大な貢献をしてきた日本サポートシステム株式会社はひとつの時代に終わりをつげ、また新たなステージへと突入する。阿見の暮らしに新たな幸せがもたらすために。その姿は、まさに生まれ変わりゆく町の姿に重なった。